「冷たい人だね」
もし誰かにそう言われても、今の私は気になりません。
なぜなら私はもう、人に物を貸さないと決めているからです。
本も、服も、お気に入りの器も。
若い頃は違いました。
頼まれれば断れず、
「いいよ」と無理やり笑顔を作って差し出していました。
でも、そのたびに少しずつ傷ついてきたのです。
返ってこない物。
催促しなければならない気まずさ。
そして、相手を嫌いになりたくないのに嫌いになってしまう自分。
だから私は決めました。
物を守るためではありません。
自分の心と、人間関係を守るために。
好意の裏側で、静かに積み重なっていった傷
思い返せば、これまでに何度も「好意」で物を貸し、そのたびに切ない思いをしてきました。
大切な本と、新品のスカート
かつて、私の宝物だった「ベルサイユのばら」の単行本。
小学生のころ、なけなしのお小遣いで買った「ベルサイユのばら」。
何度も読み返し、ページをめくる指先にも気を遣うほど大切にしていたその本を、友達に請われて貸したことがありました。
けれどその漫画は二度の私の本棚に並ぶことはありませんでした。
誤解なきよう付け加えれば、貸した相手は高校生の頃の部活の仲間で、気さくで友達も多く、私も大好きな仲間の一人でした。
ただ、少しだらしない、と言える子だったのかな。でもそれも含めて彼女の人となりだったのです。
彼女とはなんでも話せる間柄だったため、何度も何度も返してと伝えましたが、元来忘れっぽい彼女の性格と、遠方に住んでいたため取りにも行けず…とかなりじりじりしていました。
結局、卒業してしまい戻ってくることはなく。
今思えば、私は本そのものを失ったことよりも、
「返してと言わなければならない自分」
に疲れていたのだと思います。
貸した側なのに気を遣う。
お願いする側のような気持ちになる。
その理不尽さに、私はずっと違和感を抱いていました。
またある時は、買ってきたばかりの、まだ履いてもいない新品のスカート。
「可愛いスカートを買ったんだ」と友人に話したところ、
「今度のデートに借りたい!」と言い、結局押し切られて断りきれずに貸してしまいました。
自分が最初に履くはずだったあのワクワクする瞬間を他人に譲ってしまったモヤモヤ。
それでもまぁ戻ってきて履ければいいかと思ったら…まさかの戻ってこず!
ここには書ききれないほど、似たような出来事がまだたくさんあります。
もちろん「返して」と強く言えない自分が悪いのはわかっているけれど…
それでもこれらの苦い経験から、「私は人に物を貸すのは危険かも」とほんのり感じるようになっていました。
決定打となった「栗原はるみさんの容器」
そして、決定打だったのが、ある持ち寄りパーティーでの出来事。
それは長男を産んだ産院で仲良くなった(こういう絆は強い)ママたちとの集まりでした。
新婚当時の私にはまだまだ高価で、でも憧れ続けていて「自分へのご褒美」としてえいやっ!という思いで購入したステンレスのストッカー。
オールステンレスで清潔感もあり。
その時持参していった、これもまた栗原はるみ産のレシピでもある「ヨーグルトアイス」がよく冷えて、あの頃はとても重宝していました。
今はもう販売していないようですが(はぁ、重ね重ね残念!)、イメージ的にはこちらに近いです。
パーティは終わり、帰る時間になったので容器を回収しようとすると、
「容器は後で洗って返すね」と言われたのです。
それまでの苦い経験から、私の心の中に赤信号が灯りました。
「ここで了承したら、二度と戻ってこない気がする」と。
だから、私にしては最大限の勇気を振りしぼって、
「じゃぁ今私がさっと洗って持ち帰るね」と言いました。
私なりに、精一杯の拒絶でもあり、精一杯の提案でした。
けれど…結局相手の
「大丈夫、大丈夫!今度ちゃんと返すから!」
という勢いに押し切られてしまった。
この場合、もし私が同じセリフを言ったとしたらどうでしょう。
私の「今度ちゃんと返す」は「次に会ったときに絶対に返す」です。
なんなら忘れないようにするためにマザーバッグに入れておくでしょう。
玄関のドアに「容器を返す!!」と書いたポストイットも貼るでしょう。
しかし予感は的中し、その容器は二度と私の手元に戻ってくることはありませんでした。
結局のところ、私と彼女では性格が違う、ただそれだけなのでしょう。
私の「返す」と彼女の「返す」は重さが違う。
決定的に、違う。
私はもし人から何かを借りることがあるとしたら、それは大きな責任を負うことに等しい。
重いかな、そんな考え。
だから私はあまり人から物を借りることがないのですが。
でも、私が物を大事にして、購入に至るまでのプロセスも大切にして、
やっと買うに至ったものだから、相手にもそれを尊重してほしいし私もする。
それが共有できる相手ではなかった、というだけなのでしょう。
あの時失ったのは、ただの保存容器ではありませんでした。
「やっぱり断ればよかった」
という後悔でした。
そして、
「嫌だと思った自分の感覚は正しかった」
という事実でした。
私はちゃんと違和感を感じていた。
ちゃんと危険信号を受け取っていた。
それなのに相手を優先してしまった。
だから本当に悔しかったのです。
自分の「性格の傾向」を知り、対策を立てる
私は、モノをとても大切にする人間です。
一つひとつのモノに強い感情が入るし、愛着を持って接しています。
だからこそ、それらを雑に扱われたり、返してもらえなかったりすることが、どうしても耐えられないのです。
一方で、私は自分の性格の傾向も知っています。
相手に対して、その場で強く「ダメ」と言い切ることが苦手で、相手の勢いに押し切られてしまいがちだということ。
器を入れ替えようと提案したのに押し切られたあの時、
容器を失った悲しみと同じくらい、NOと言えなかった自分自身にも深く傷つきました。
貸した側は、その物が戻ってくるまで、ずっと小さな針でチクチクと胸を刺されるようなストレスを抱え続けることになります。
「いつ返してくれるのかな」「大切に扱ってくれているかな」
そんなことをぐるぐると考えてしまう時間こそが、何よりの損失。
そして何より悲しいのは、そんな風にやきもきするうちに、貸した相手に対して「嫌悪感」や「憎しみ」を抱いてしまうことでした。
「相手を憎まないため」の、優しい自衛
「物を貸す」ということは、大切な物だけでなく、
その人との「人間関係」まで危険に晒すことなのだと、身をもって学びました。
相手に悪気がないからこそ、こちらの傷は行き場をなくします。
だから、私はもう二度と、他人に物は貸さないと決めました。
これは、頑固でも、ケチでもありません。
巡り巡って、すべては自分のため。
自分の繊細な心を守るため。
そして、「大切な相手を憎まないため」。
関係性を良好なまま保つための、私なりの、相手への優しさでもあるのです。
今なら、もし何かを「貸して」と言われたら、
あらかじめ決めておいたマイルールに則って、毅然と、けれど丁寧に断ることができます。
「ごめんね、私、物は貸さないことにしてるの」
一度決めてしまえば、もう「どうしよう」とオロオロすることも、
相手の勢いに押し切られることもありません。
面白がって、平気で生きるために
自分の持ち物を愛し、自分の心地よさを最優先する。
誰に遠慮することもなく、自分の人生を面白がって、平気で生きていく。
お気に入りのスカートを自分で履き、
大切な本を自分の手元に置き、
お気に入りの容器でおいしいものを食べる。
そんな当たり前の、けれど私にとって奇跡のように穏やかな毎日を、
これからも私の手で守っていきたいと思います。

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